2012年06月25日

過疎の村の地方公務員に、すごい事業力を持った男がいた


高野誠鮮著 「ローマ法王に米を食べさせた男」 (講談社 1400円+税)

ローマ法王.JPG

筆者は能登半島の中央部に位置する石川・羽咋市の出身。代々続く日蓮宗の僧侶の次男坊。
学生時代から雑誌のライターやテレビの構成作家の仕事を行っていたというから、確かに毛色は変わっている。 もともとユニークな発想力を持っていたらしい。
ところが28才の時に兄が埼玉に家を建て、「跡を継がない」 と宣言。
やむをえず実家に戻って僧侶を継ぐことになったが、父が元気なので2人で僧侶商売をやるほど忙しくはない。 勤めに出たいと思ったが、30近い男を雇ってくれる職場が田舎にはない。
あせっていたら、役所が臨時職員を募集していることが分かった。 臨時であろうが背に腹は代えられない。 すぐに採用が決定したが、給料は手取りで6万8000円。 これでは前年度の税金も払えない。

臨時職員の2年目から教育委員会の社会教育課へ移動になり、竹下登総理で有名になった「町造り、村おこし」で、青年教育を担当させられた。
市が 「町づくり」 でやってきたことは、名士を呼んできて文化会館での講演会。 担当者は、講演会を開催することで 「ふるさと創生」 が出来るかのように考えていた。 あまりのバカらしさに図書館にこもり、人口2万から5万人の114市町村の失敗事例と成功事例を調べた。判ったことは成功事例の全てが 「町おこしの必要性と意義」 を理解していた。つまり、ポリシーがあった。
ところで、羽咋にはポリシーも目玉になるものもない。
4つの青年団から2~3人の人をだしてもらい、勉強会を夜開いたが、臨時職員には予算もつかない。
ただ、公民館での古文書講座の時、地元の古い気多神社に「西山の中腹を東から西へ移動して行くソウハチボンという怪しき火・・・」という古文書があることを知った。 このソウハチボンと言うのは仏具のことで、麦藁帽のように2重になった輪のこと。 「これは、まさしくUFOではないか・・・」

しかし、UFOがどこまで町おこしに役立てられるかは判らない。 ともかくゴルバチョフ、レーガン、サッチャー宛に手紙を出してみたと言うから暇で悪戯が好きな人間。 ロシアの大使館から返事はあっただけで効果なし。 普通だったらレター作戦はこれで諦める。 
ところが、暇な臨時職員はAP、AFP、ロイターなどの外電へ情報を流す一方、まずは北海道の新聞、テレビ、雑誌、タウン紙に 「羽咋がUFOで町おこし」 というFAXを送り続けた。 北海道のあとは九州、四国、東北、中部という具合に、市役所のFAXを使い続けていたと言うから、バカさ加減もここまで徹すれば立派。
そうしたFAXの一つに 「羽咋のUFOうどん」 があった。 友達に「作ってみてくれ」 と頼んだのだが、親に相談したら 「暖簾に傷がつくから末代までダメ」 と断られた。
しかし、週刊プレイボーイ誌がFAXを真に受けて土曜日に取材にくる。
幸いなことに、うどん屋の親父は土曜日に用事があって不在。 そこで友達にそれらしい「UFOうどん」を作ってもらい、古文書の写しを記者に渡して試食させた。
よっぽどネタが枯渇していたのだろう。なんと羽咋のUFOでの町おこしを、プレイボーイ誌は6ページ亘って掲載。 一挙にUFOうどんに火が着き、UFOラーメンやUFO饅頭まで登場することになった。

「羽咋のUFO」 がテレビでも取り上げられるようになり、「UFO研究調査団」 が県議、ロータリークラブ、商工会を中心に結成され、アメリカのハーバード大、スタンフォード大へ視察に行った。 この時、国連の記者クラブで思いつきの発表を行っている。
「国連の議題126号でUFOの情報を調査、統合する機関を設けることになっているが、羽咋市では宇宙科学博物館建設計画があるので、是非任せてほしい」 という大風呂敷のご開陳。
地元の新聞記者が同行していたので大きく取り上げたこともあり、NASAの全面的な協力を得てスカイラブ4号の船長ジェラルド・カー博士の参加もあって、1990年の11月17日から25日の9日間に亘る「宇宙とUFOの国際シンポジゥム」 が羽咋市で開催された。
人口2.5万人の市に、延べ4.5万人の人が集まり、地元の商店街は大繁盛。
この大成功によって、著者は5年半にわたる臨時職員から足を洗い、晴れて市の公務員として正式に採用された。 35才の時だった。

正式な地方公務員となっても、筆者のハチャメチャとも言える積極的なUFO活動は続けられた。
著者の活動は県下だけではなく全国的にも有名に。 そして、部長に対しても誤りは堂々と指摘し、抗議するものだから された方は面白くない。 生意気な部下の処遇に困った部長が、「お前みたいな奴はこの部にはいらない。農林課へぶっ飛ばしてやる!」 と2002年、著者が48才の時に農林水産課へ飛ばされた。
部長は、農林水産課は役所内では下の下。クズ職員の溜まり場と考えていたらしい。

著者が農林課で担当させられたのは神子原 (みこはら) 地区という1000haの中山間地域。
富山県と隣接する標高150~400メートルの急峻な傾斜地に点在する限界集落。 つまり、65才以上の高齢者が半分以上を占めている地域。
神子原出身だと判ると 「山猿」 呼ばわりされるので、誰も出身地のことは口にしない。 住民の多くは農家で、耕作地は110ha。 ほとんどが棚田。 著者が担当した時点で、かつては1000人も住んでいた人口が527人と半減し、耕作放棄地は40haを越えていた。 そして、農家の年収を調べて見たら87万円。 サラリーマンの世帯の1/5。 これでは若い人は村を出て行かざるを得ない。
この現実を見て、市役所が何もやってこなかったことを知り、「申し訳ない」 と心の底から詫びた。

2004年に市長選挙があり、「高齢化した過疎集落の活性化」 というマニフェストを掲げた橋中新市長が誕生。 
この新市長は著者の手腕を高く買っており、農林水産課内に「1.5次産業振興室」が設けられ、その責任者に著者を据えた。 そして、(1) 過疎高齢化集落の活性化 (2) 1年以内に農作物のブランド化を図る・・・・という大命題を与えた。
ここから、筆者の八面六臂の大活躍が始まる。
しかし、いくら市長の強い支援があっても役所内に応援者がいないと役所を動かして行くことが出来ない。 幸い、上司の池田農林水産課長が、「犯罪以外だったら何をやっても良い。俺が全部責任を取る」 といって後ろ盾になってくれたことが大きく物を言った。

新しいプロジェクトを始めるに際して、必ず会議が開かれるのが常識。
しかし、いまさらいくら会議を開き、厚い計画書を作っても全く意味がない。 必要なのは行動力。予算は60万円と低めに決めたら、市長が「おれの目玉政策。一桁違うのではないか」 とびっくり。
「大丈夫です。 そのかわり、会議はやらない。企画書も作らない。稟議書もなくして上司には全て事後報告でよくしてほしい。 ともかく、今までの役所のやり方を踏襲していたのではスピードが上がらない。 1年間で農産物のブランド化などは夢のまた夢にすぎません」 と直談判。
これを市長だけでなく池田課長も了承。

そして、最初に神子原地域の活性化対策として提案したのが「空き農地・空き農家情報バンク」。
都市生活者に農地と空き家を保全してもらい、交流の輪を拡げようという案。 ただし、農地・農家込みの賃貸料は広さに関係なく2万円が上限。 そして、住民票を羽咋市に移すことが条件。
この案を地域の100人に説明したら、「戦後、疎開してきたよそ者で大変に苦労した。それに仏壇の面倒は誰が見るのか。 よそ者に農地や農家は貸せない」 との大反対の合唱。
そこで、僧侶の本領を発揮して、「抜魂」 すれば仏壇は問題ないと説き、同時に 「誰を入村させるかは、皆で試験すれば良いではないか」 と提案。
他県では家賃はタダとか、入村者に100万円払ったりしている。これだから、入村者から足元を見られている。 むしろ試験をした方がお互いの理解を深めることになる。
そこで、試験を条件に応募を開始したら、低い時でも4~5倍、多い時は24倍にもなった。
面接試験では、村に入ろうとする動機を村民が根ほり葉ほり聞く。 これで村民も納得。
最終面接に合格すると、「あんたは今日からおらっち在所の人間や」 と暖かく迎え入れる。
現在、12家族、35人が県外から神子原地域に移住している。

次にトライしたのは、隣県・氷見の長坂に学んだ 「棚田のオーナー」 になってもらう制度。
これを欧米の通信社へ 「年間3万円で、綺麗な山水で育てた玄米40kgを提供します」 とFAX。それをイギリスのガーディアン紙が記事として扱ってくれ、イギリス領事館員がオーナーの第一号となってくれた。
これがニュースとなり、40組のオーナー制に100組の申込みがあった。
このコメのオーナー制度の成功に気をよくして、椎茸、なめこ、レンコン、たけのこなどのオーナー制度も軌道に・・・。

次に考えたのは、若い学生が農家に2週間泊まって農業体験をしてもらう「烏帽子親農家制度」。
これは簡単に言うならば、「農村体験民宿」。 それを知った県の薬事衛生課から旅館業法に違反しているから出頭せよとの命令。 平安・室町時代の仮の親子関係を結ぶのであり、不特定の人を泊めるのではない、と新聞記者からの逆取材してもらったら県は手のひらを返した。
ただし、最初は、「酒の飲める女子大生2名」 に限定した。男子学生だとオス。なかなか農家の父親は受け入れ憎い。 そして、酒が飲めると晩酌の相手になってくれ、夜の早い農家の中で1軒だけ遅くまで灯りがついていて楽しそう。 その効果を狙って05年の7月に法大と東農大の2人の女子学生を迎え入れた。
2人の女学生はとても酒が強かった。 しかし、翌日は朝早く起きて畑仕事を一生懸命にやってくれた。
それを見て、夜になると隣近所から2人の居る家へ集落の人が集まってくる。 しかし、誰も2人の酒量にはかなわない。 ひとりでに笑い声が大きくなってゆく。
これが08年からは20人の学生が分宿する「援農合宿」に変わり、最近では外国人も増えている。
英語などの外国語が喋れなくてもおばあちゃんは平気でコミュニケーションを強め、不良学生を暖かく戒めて蘇生活動も行っている。

さて、問題の農産物のブランド化。
日経BPの1996年11月号に 「全国の美味しいコメ ベスト10」 の3位になんと神子原の羽咋コシヒカリが入っていた。 調べてみると、綺麗な山水だけで育っている神子原のコメは確かに美味しい。
後に、アメリカのデジタル・グローブ社の人工衛星の撮影による食味分析画像で、神子原地域のコメは飛び抜けた美味しいことを知ることになるのだが、その前に天皇家でこれを食してもらおうと宮内庁に勤務している加賀藩ゆかりの人に頼み込んだ。
感触が良かったので楽しみにしていたのだが、天皇家が食するのは献穀田からのものに限られると判って断念。 そして、天皇家に変わって定めた狙いがローマ法王。
しかし、1ヶ月過ぎても2ヶ月過ぎても返事がこない。 しびれを切らして 「米 (コメ) 国」 と書く米国のブッシュ大統領にアプローチしようかと考えた時に、ローマ法王庁大使館から電話が入った。
多忙な橋中市長の予定をキャンセルしてもらい大使館へ急いだ。玄関にはカレンガ大使が出迎えた。
「神の子が住む高原の名のつく美味しい羽咋米を、是非法王に味わっていただきたい」 と新米を差し出した。
そしたら、大使は、「あなた方の神子原は人口500人の小さな集落ですね。私達バチカンは人口800人余の世界一小さな国です。小さな村から小さな国への橋渡しを喜んでさせていただきます」 と言って法王への献上物を受け取ってくれた。
これが、外国人記者クラブで取り上げられ、神子原のコシヒカリは見事にブランド化を果たした。

この他にも、農家が出資をして経営する 「直売所・神子の里」 の成功への長い物語。 山奥で神音カフェの開設。 宿敵だったJAと組んでの無農薬・無肥料のコメや野菜作りの一大運動。 さらにはF1タネを追放し固定タネの育成運動。
それに、先に紹介した人工衛星による食味分析画像という科学的な武器を、羽咋だけでなく各地に安価に使ってもらう普及活動。 さらにはアメリカやフランスのマーケットへの進出計画。
この著者の行動は、とても過疎地の一地方公務員のものとは信じられない。
私欲のない、溢れる好奇心とアイディアには頭が下がる。 産業界の下手な事業家以上に立派。

そして、農林省の役人の 「耕作放棄地に手をやいています。何か良い方法はありませんか」 との質問に対する答えが嬉しい。

ご案内のように、農林省は耕作放棄地の処理が計画通りに進んでいないので、ソフトバンクの孫社長の 「耕作放棄地で太陽光発電を!」 という愚策に飛びつこうとしている。 日本は世界一水資源に恵まれた国。 近い将来に間違いなく食糧難時代が到来するというのに、42円と割高な買上価格に依存する投機マネーに国土が荒らされるのを黙視するのは大変に危険な愚策。
著者は、農林省の役人に次のように答えている。
「耕作放棄地が問題だと言う考え方そのものがおかしいんじゃないですか。 前年まで農薬や化学肥料を使っていた田畑では自然栽培が出来ません。 4~5年耕作を放棄していた田畑こそ、残留農薬や化学肥料もなくなっているから、腐らない農産物を作るのに理想的な土地。 土地本来が持つ力が復活しており、健康な農産物を作るのに理想的な環境。 もちろん輸出用農産物としても最適地。 TPPに勝てる唯一の方法は自然栽培ですよ」 と。

この著書こそ、今年前半の最高の出色本だと断言したい。







FISM ACM 2017 in GIFU
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松旭斎滉司
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